最近、ネット上の知人が死んだということを人づてに聞いた。iらんど時代にちょっと詩とかおいてくれた子なんだけど、その経緯を聞いて私は愕然とした。
復讐するは我にあり。
これはチェーコフの「アンナ・カレーニナ」の有名な一文だ。この言葉を最後にアンナは列車に自ら飛び込み自らの不倫の罪を償うため自殺する。
しかし、ほんとうにそんなことで罪はぬぐわれるものなんだろうか??
かつて、酒鬼薔薇事件の際、ある高校生がTV討論で「何故人を殺してはいけないの?」と質問し周囲の大人を黙らせたことを覚えている方はいるだろうか?別に、彼は「わからないから」聞いただけであり、むしろ問題視すべきなのはそれにマトモに答えられない大人たちのメンタリティであるのだが、そのあたりに明快な答えを出したものはいまだいない。
それもそのはずだ。殺人というものは人間だけがもつ最大のタブーであるからだ。
殺人?と思うかたは戦争、自殺、あるいは死刑問題、中絶問題などを考えて欲しい…人が人の手で人の命を消すという行為にはさまざまな思惑や感情が渦巻いている。それだけ、この行為が人間の本来の分を超えた行為であることの証だと私は思う。
先の高校生発言に関して、映画『デットマン・ウォーキング』と絡めて「Web電藝」金水正氏はこうかいている。
(前略)
一方で死刑を求める人たちがいて、主人公のシスターはそれと闘っている。死刑を求める人たちの心には、理解を越えた犯罪を冒す者たちへの憎しみが渦巻いているが、それは死刑囚が最後まで周囲の人たちやシスターに対して心を開くことができない(何があったのか真実を告白しない)のと同じだ(彼の心の中にも憎しみと恐怖が渦巻いている)という風に描かれているように思える。したがって、憎しみを超えて心を開くことができれば、人々は許し合うことができるはずだとこの映画は伝えているようだ。
だがしかし、そこにはまだ一つ問題が残っているのではないだろうか?確かに死刑の執行の直前に至って、死刑囚は主人公に心を開き、実際に行った自分の犯行を告白する。(中略)しかしそれでも、彼のあの残酷な犯行だけは、依然理解を超えた事実として取り残されたままではないか。どうして彼は人を殺してしまったのか。そのまがまがしい犯行の現場を人の原罪の在りかでもあるかのように映し出す映像は、この映画の中でどんな意味を与えられているのだろう。
web文藝 なぜ人をころしてはいけないかhttp://www.indierom.com/dengei/society/kinsui/hito.htm
この映画はレイプ・殺人を犯した犯罪者に対する死刑問題を扱ったものだが、死刑を必死に止める主人公シスターも、逆に彼を死刑に追い込む人々も、「人を死をもって裁く」という命題から逃げられない。そして、当の犯罪者(ショーン・ベン!っす!好きなんだよお)も死刑執行直前に「私は人を殺すという悪いことをした。(そのことを反省し、残された人にお詫びを言う)人を殺すということは悪いことだ。だから私も殺さないでほしい。」と切なげな顔をして、殺人の悪を語る。
そう、だれもが殺人は悪いと思っているのは自明のはずだ。だから、そんな質問は必要が無かった、はずだった。それまでは。
しかし、殺人に限ったことではないが犯罪は人知の範囲を超えたところで突発的に起きる。それをなるべく食い止めるために様々なルールが必要となり、制度ができ、法ができ、その名のもとでまた…な悪循環を繰り返している。今も。その悪循環がさらに人間を苦しめつづけているのは皮肉な話だ。もしかして人間が人間を死で裁くというのは、自殺行為なのかもしれない。それがわかってても、そこまでしないと憎しみや恨みが収まらないのはなんでなのでしょうね。たとえ、それが自殺という選択肢だったとしても。
この話、「The Center~」の項目にしたのも、物語最大のテーマ「最初の殺人は何故おきたのか?」というおそらくはライフワークになりかねない課題そのものに抵触するからであり、さらにはこのテキストで「神が人を裁く」ことを考えされられたからである。
Posted by nagisan at 2004年05月22日 13:27