nagisanの記録

    2004年3月31日

    フォントに関して

    えっとちょっとデザインいじってみました…といってもまだ半分ですが。

    ところで最近私、このタイトルのフォント「cootnew」(ここからダウンロード出来ます)にはまっています。
    実は移転前のサイト引越し報告(2、3日中にはでるんじゃないかと)のタイトルやプライベートで焼いているCD-ROMのジャケットやら片っ端から使いまくっています。このクールさ加減が個人好み。なかなか、かくかくしている割に汎用性の高いデザインがナイスですね。意外と好みのデザインと言うものには出会えないものです。

    イヤ本当に。これの日本語あったらマジほしいっす。

    いろいろとフォントいじっているとやはり欲しいのが、極太明朝体。
    (この時点で…エヴァ……いやいいです。)
    英字ではHelvetica(Macではおなじみだが、winだと要ダウソ)がデザインの基本ですが、結構明朝体というのも扱いが難しいものです。フラッシュではよく泣かされました。
    …結局、本家エヴァまんまの黒地に白、に落ち着きましたが。へたに色が許されないのよ。恐怖感増して使えないというか。色指定をミスって音入れたらトラウマ映像状態になってしまい、慌てて修正と言う場面も。
    夜眠れないのよ、目に焼き付いて(オイ

    ひふみ神示

    オカルト巡りをやっていると、最近目に付くのが「ひふみ神示」(「日月神示」とも書く場合あり)といわれる神託である。岡村天明(1897-1963)に託された神託の解釈に関しては、カバラとかと同じように数字のロジック的謎解き要素も強いので多種あるが、基本的には「いつか神の名のもとに、人間の行いが報われる日が来る」という単純明快な「黙示録」である。一説にはオウムもこの神託に関心があったともいわれ(この件に関しては、「雑文保管庫」が詳しいと思います)、最近のオカルトキーワード「アセンション」「フォトンベルト」「人類の霊的進化」に関して大きな手がかりだとも言われています。


    まあ、一番この神示を象徴しているのはこの日記かな?

    ・神には人のいふ善も悪もないものぞ。 ・神の御用と申して自分の仕事休むやうな心では神の御用にならんぞ ・この神示通り伝へて呉れればよいのぞ、自分ごころで説くと間違ふぞ。 ・百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。 ・悪いこと待つは悪魔ぞ、何時建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。 ・宇宙の総てはこの神の現はれであり、一面であるから、その何処つかんで拝んでもよいのであるぞ。その何処つかんで、すがってもよいのであるぞ。総てに神の息、通ふているぞ。


    太陽と月と人と 2004/2/11 抜粋

    まあ例によって「はまりすぎ注意」を守りつつ見てみると、「人の善悪の両義性」「(ガイア…地母神的な)神の実在」「人間の自由意志の尊重」などの特徴が見られますな。どちらかというとキリスト的一神教的発想ではなく、古来日本的シャーマニズムの「八百万の神」な感じのほうが絶対と言う立場をとってます。この未来に関する神示は正に日本版「黙示録」にふさわしいと思います。

    しかし、内容はヨハネのアレとまったく反対なのに「絶対悪」の暗示があるって…やはり悪魔はほんとうにいるんでしょうかね?

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    2004年3月29日

    反射神経的日記

    最近ネットのあれが反射神経的反応の内容しか書いてないことに気づいて、
    _| ̄|○

    もともと日記というのは反射神経で書いて当たり前だと思うけど、私の場合テーマを決めてジャンル分けする嫌いがあるので、どうも「考えまーす」的内容になりがちである。実はそうじゃないんだけどね。でもすこし問題なのは、こっちをメインにしようと書いているのについついあっちにショートショートな話を書くのはあれだなあ、と。まだこっちのシステムになれていないだけだと思うけど。しかしなあ間違いなくあっちのほうが見られているみたいなので、見ているほうに目が行くのはしょうがないよなあ。

    とここまで書いて、最近仕事しているのに内容が引きこもりなことに、
    _| ̄|○  

    結局、私はヒッキーなのね(・∀・)ゲヘラヘラ

    2004年3月28日

    オタクと世界と1980年代

    最近は『Jリスト』(…18禁かよ!!)なるものも出来るくらいオタクがカルチャーとして認知されてきましたが、そこに至るには70年代後半~80年代を中心に繰り広げられたオタクカルチャー「ルネッサンス」というものを理解しなければなりません。

    なぜ、オタクがここまで文化としてのし上がってきたのか…それにはいくつかの理由があります。



    1.SF関係から流れた「スピリットオブワンダー」精神を受けづいだ漫画・アニメ作家(手塚治虫・宮崎駿・富野由悠季・松本零士など)が同時に多発した。
    2.1に影響された層がアニメに「子どもだましの世界」を越えた何かがあると感じ、それを大事にしようとする運動(コミケの誕生やDAICON(ガイナックスの創設メンバーがそろってここにいた)とか)が発生→オタクの誕生
    3.80年代に流行ったロリコンアニメ(吾妻ひでおやスタジオぴえろの魔法少女シリーズが代表的か?)が潜在的に潜んでいた日本独特のロリDNAを刺激した
    4.5、6年の(宮崎勉事件あたり~)潜伏期をへて、異世界系の「もののけ姫」「エヴァンゲリオン」で社会現象化
    5.同時期に発生したインターネットに関係するIT関連がオタクの層とバッティングしたおかげで、オタク系のHPがメインストリート化する
    6.インターネットあたりで外国人が見て体験して「じゃぱーずオタク、スゴイネ」と言わしめる

    こんな感じでしょうか。
    しかし、ここには『「世界」と「ぼくら」の関係性』というオタク独自のメンタリティに関して、完全にぬけおちているんですな。実は。そして、この文化自体が前の20世紀でなければ生まれることの無い真の「ジャパーニーズカルチャー」の継承者である最大の理由もここにあるのかもしれませんな。

    どうして「子どもの文化」が欧米を巻き込むカウンターカルチャーにまで広がったのか…
    どうして「オタク」(もちろん腐女子もだよ)はエロに正直すぎるのか(大げさ)…

    これはさあ、結局親子間の関係性の断絶から来ていると思うんだよね。その結果、子どもだけの世界を構築し硬直した従来の大人文化にカウンターをかけた…というのはオカルト領域ですな。

    飛ばしすぎ。

    フラッシュ作成中

    今必死こいて慣れないフラッシュなどを作っています。
    新サイトのメインコンテンツの予告編です。
    しかも体験版の期限切れが近いので、時間との戦いでもあります。
    (なら、買え<金も無い)
    やっている最中に気になったのが音。
    今まで気にしてなかったんだけど、結構アニメーションって音が必要なんだということを痛感。そのままのフラッシュじゃあじけが無いのね。しょうがないので何件か探して適当(本当に適当)に入れたら、重ねた音がいい感じ。なるほど、音楽ってこのように作っていくのね…みたいな新発見。どっちかというと音楽には疎かったので、音楽のセッションの楽しさっていまいち理解できなかったのですわ。
    ( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーな感覚。
    ららら、ブタさんモー!ぶー!

    まあ、一応形にはなったのであとはHTMLにswfファイルを埋め込んで、こっちのTOPをつくって…
    …で完成は来週になると思います。あ、ここもいじらなくちゃ。

    2004年3月27日

    人に見られるのいやなら、ネットやめちまえ

    時々、閉鎖の理由として出てくるのが、

    「知られたくない人に、サイトばれしてしまったので閉鎖しました」

    …というのがある。しかし。しかしだよ。よく考えてみると、ネットで日記やらウェブログ(このくくり自体はあんまり好きじゃないけど、今のウェブ日記の英訳「web上での(自分の)記録」ってこれしか思いつかない)とか書くって事は、自費出版で、日刊で、自分のネタを公開するわけで、ネットの本質をわかっていない気がする。私も非常に短気(どれくらい短気かというと…以下省略)なんでアレなんですが、見られたくないのならメモ帳とか秀丸とかのエディターでもPC日記は出来るわけで、わざわざサーバ借りてUPすることはないんだよね。
    知られちゃまずいネタは書かない。(少なくともウェブには載せない)
    これは、常識だと思うんですが…間違ってる?
    最近、個人ネタ書かないのは、書くと職場バレしやすいところに働いているためネタ化しづらいから。とてつもなく面白いのは間違いないのですが、ネタバレの恐怖が今までの職場より大きい(これでも、本家では設定を加工していた)ので今は自粛しています。「サイトばれ怖い」とか言っている人たちってこの手の努力してないのかね…と思うときもアル。

    悪いけど、世界中に隠し事のできる空間なんて無いのだよ。
    (10世紀前後に活躍した、通称「ロバ耳王」の言葉)

    2004年3月26日

    ヘルメス。

    ヘルメス。
    まあ、いつまでも現実にかまけてもアレなんで、「伝令の神」ヘルメスでも語りましょうか。

    しっかし、こいつ初めてギリシャ神話読んだときから気に食わなかったのだけど、よく読んでみたらそうとうな大嘘つきだよ。そういや、人間界に降りたパンドラにも「ずる賢さ」と「大胆さ」を与えていたみたいだし、商業や貿易の守り神であり、泥棒の守り神でもあるらしいし、もしかしてギリシャの神々が今生きていたら彼が中心になるんじゃないかな。現に、銀行や金融業界で彼をあがめているグループがあると聞いたことがある。(日本にもあるそうな…オカルトルートだけど)考えようによっては、伝令=情報ってことで、現在もっとも価値のあるものを司っている神でもあるし。

    というか、「オデュッセイア」をはじめいろんなところで英雄や神々に対し介入をしてるのは、基本的に自分の欲でしか動かないゼウスより真に神らしい神だといえようかね。現に、


    ヘルメスは、インド・ヨーロッパ人全体から崇拝された神だった。彼は処女マイアMaiaから生まれた「秘儀を極めた者」であると同時に、インドでは、やはり処女マーヤーMayaから生まれた「秘儀を極めた者(悟りを得た者)」(ブッダ)だった。『マハーニルヴァーナタントラ』では、ブッダはメルクリウス(ヘルメス)と同じ存在で、月(マーヤー)の息子であると述べられていた 。
    反ギリシャ神話より


    な感じで、ブッタ転生説を唱えるものもいれば、グノーシス派なんかでは「=ウノボロス」「時間を支配するもの」とか、あるいは=ミカエルとか…もう神々の同一視に関して追求していくときりが無いので止めておきますが(まあ、この神々の同一視傾向、実は心理学的に大きな秘密がありそうなんですが)、つくづくとんでもない奴だなあ…と思う。

    ちなみに彼の子ども(@妻アフロディーテのそれ)は両性具有で、悪魔(@羊飼いの娘)…化け物だ、この遺伝子。

    ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」

    「快楽の園」より「エデンの園」
    ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」
    先日、ちょっと図書館に資料集めがてらいろいろ絵画方面の本をつまんでみたら、このヒトの作品にぶち当たりまして。

    なにが心にヒットしたと言えば、聖書の世界観をモチーフにしていながらも当時(ボスの生暦は1450-1516)の風潮とは一線を画した、超越した画風とアイディアの持ち主であったことかな。普通、あの時代に悪魔や怪物をあんなユーモラスには書けませんぜ、ダンナ。
    ま、かの岡本太郎も賞賛したらしいけど、個人的には、絵画方面というよりは、水木しげるラインの妖怪系の漫画やら浮世絵に近いような。

    まあそれはおいといて、なぜ「神話ネタ」にカテゴリーされたというと、この絵自体がかなりの勢いで、神話モチーフをふんだんに盛り込んでいるからであって。チラッと見ただけでも、天国のアダムとイブ(この絵はそれ)、地獄のサタンと様々な地獄絵図(のわりになんか現代社会に近いと思うのは私だけ?)、泉と裸体の男女であふれた楽園。なんだか楽しそうですな。これなら千年王国を夢見たいかも。


    で、だ。「ヒエロニムス・ボス」でググッて見ると、


    ボッシュの残したいくつかの作品は、本来キリスト教側の依頼によって描かれた祭壇画だ。
    創世神話から最後の審判、そして天国と地獄へという直線的な世界を表現したものである。けれども、そこにはキリスト教が忌避した世界をも、怪物や楽器を描き込むというかたちで象徴的に存在させていたりする。

    狙われた絵画 "ヒエロニムス・ボッシュ"


    当時のヒトにとって聖書の世界観というのは、いまでいうテレビや映画みたいな総合娯楽の一端だったのかなあ‥と思わせるような記述が。聖書というのは、当時のキリスト教圏の人々にとって単に宗教的な教訓の意味だけでなく、様々な想像力や空想を働かせる、ある種御伽噺の側面もあったのかもしれないですな。

    このような絵を見てると、なんだか一日眺めてても飽きない気がする。

    2004年3月24日

    最近歩くのがつらくな

    最近歩くのがつらくなった気がする。
    一番やばいのは、街中を歩いていても興味が薄れてきているということで。
    街を歩いているわくわく感より「あー、ダル」な徒労感が強くなっている…こりゃあかんわ。
    と、歩こうとすると、体力がない(もともとないほうだか)のですぐに息切れ。

    若いとき、もっと運動して置けば良かったアルね。

    ときすでに遅し…いいもんいいもん。

    いくつでも発見の出来る精神でいたいものですな。


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    神話から日記まで

    たしか昔筒井康隆と大江健三郎(もしかして井上ひさしもいたかもしれない)の対談で、

    「物語は「神話→英雄伝→民話→日記→神話」の順番でブームが回転している」

    みたいなことを言っていたのを思い出しまして。
    つまり、主人公が時代ごとに高位の存在から身近な存在へと下っていき、ある一定の期間でいつのまにか人々が神話を欲するようになっている、という物語の構造の癖を指摘していましたね。周期的な嗜好の傾向というのも時代の波に呼応しているらしく、日記→神話へと時代が移るときというのは直前の文化が肥大化してるっぽいです。
    ただしこれが時代の変化と呼応しているかというと微妙なんですが。(単に勉強不足)
    まあ、文化が政治を上回り政治が逆に文化を利用する…というのが真相かもしれません。
    ヒトラーとか北朝鮮の偉い人とかもおたくっぽいみたいし。

    あるいはオカルトと文化は薄皮一枚の同質のものかも。

    2004年3月22日

    バルクの書ー二人の創造主ー

    あんまり妄想ネタかましてもなんなので、ぼちぼち本腰でも。
    えと、この「バルクの書」、グノーシス神話(AD2、3世紀に発生した聖書とギリシャ神話・哲学のクロスオーバー的思想…だったがローマ帝国=正統派キリスト教に押され衰えていったらしい)でも小品で、それもキリスト教神父ピッポリュトスが「全異端反芻」(…まんま)で報告されていたところからしてもマイナーなことこの上ない書物である。
    しかし、この書物興味深いことに一神教主義の文化では珍しい「2創造主」の世界創造で始まっているところにある。しかも、その名前が”生まれた万物の主”「エロヒム(♂)」と”予見せざるもの”、”怒りやすいもの”「エデン(♀)」…どっかで聞いたことのある名前である。それもそのはず、前者は魔術やっているものなら良くある呪文(「エロイム・エッサイム♪)だし、後者は聖書の「楽園」そのものである。さらに言えばこの二人がそれぞれ12人ずつ天使を創造し、かれらに楽園を築かせたのが旧約聖書のそれだったりするらしい。
    で、人間創造(アダムとエヴァ)なんですが、天使たちが作った肉体にエロヒムが「霊」、エデンが「心魂」を与えて終了なんですが…ここでエロヒム、妻のエデン置いてけぼり(というよりエデンは天にいけないとか)完成図を見るために天に上がってしまうわけで、しかも自分より高位の存在「至高神」に出会ってしまって自分の行いに絶望し天界でとどまることになる。
    んな彼の事情をしらないエデンは家に帰らない旦那を派手な衣装を着たりして誘惑するが一向に帰ってこない。そのイライラを子孫である人間に向け、自分の子の天使「ナース」(=「善悪の知恵の木」…あれ?)を使って堕落させてしまう。

    それ以来人間界はエロヒムの子の天使「バルク」(これが「命の木」にあたる)と「ナース」との壮絶な対立さらされるわけで、バルク側は必死に至高神の教えを伝えようとするが(そのリストにはモーゼやヘラクレスもいるそうで)そのたびにナースの邪魔にあってしまい失敗する。

    そして、「神の子」イエスの登場を待つわけなのである。

    ちなみにここの天使は他の聖書と違い善悪こもごもの複雑な存在になっているのが興味深いです。

    2004年3月18日

    何のために物語はあるのか?

    身の回りにはたくさんの物語がある。

    愛の物語、友情の物語、あるいは戦いの歴史、あるいは長い長い旅の歴史、または異界のファンタジーやSFなど…

    指を折って数えると本当にきりがないのですが、時々読んでて思うのは「なんで人間って奴はこんなに空想の物語にふけるのが好きな動物なんだ?」ということ。オカルトにはまっていると昨日言ったけど、その割に実は妖精や天使、妖怪の類というのは信じていない。あったらいいな、いたらいいな…そんなレベルで本当にいるとは思えないし、実際天使や宇宙人のことをさも実際に見たように言っている人はどこかうさんくさい。(話が面白いので、「ネタ」として楽しんではいるけど)
    で、そんなリアリストにとって一番のネックとなるのが「神」。
    神の言葉なんて聞いたことはないけれど、様々な神話を読んでいると本当にいそうな気分になる。なにせ、一万年あるいはそれ以上前から口頭で伝えられ生き残ってきた「物語」の王様だ。面白いのはご先祖様のお墨付きだ。しかも、その神話というのはある一定のパターンがありそれに地域性、その時代の流行や思想が加わって変化しているにすぎない。

    で、一つとんでもない仮説を立ててみたい。
    「すべての物語は、ある一つの物語を原型としており、すべての物語はそれをサンプリングしたコピーにすぎない」と。
    となると、いろいろな疑問がどかどかと増えていく。
    どうして、そこまでして物語を伝える必要があるのか?
    その原型というのは何処に、何処から始まったのか?
    ならばその終わりはどんなものなのか?
    …キリがないのでやめておくが、ちょっとこのとんでもない遊びに付き合ってみたいと思う。
    なんとなく、アレなんだけど。せっぱつまっているというか…ライフワークになるかもというプレッシャーもあるけど。

    未来の思い出

    ときどきいわゆる「イッちゃった」人の話を聞いていると単なる妄想では済まされない話に出くわすことがある。
    神話や「高次元」の中に埋没してしまって帰ってこれない…これが彼らの根源的主張である。
    個人的には「高次元的存在や神なんかにあこがれるのはかまわないけど、肉体的には血の流れる人間だろ!この出世欲強情者が!!」と内心突っ込みたいのですが、ときに「おや?」と思わせるなにかがあったりしてるから見捨てるわけにはいかないものです。(でも、信じすぎるのはどうしてもダメ)
    ひとつヒントをあげると、人間の終わりはうっすらとはいえ、多分ほとんどの人が理解できるということ。楽しいくらい人類の終わりは「火」か「水」で終わっているんだよね。実はどっちかが嘘(というより単なる警告)で一方が本物の終わりである…と私は思いますね。隅々まで神話を見て考えればそれはわかるのではないかと。あと、天使なる存在の正体も。

    これは、アカシックレコードがどんなものか考えたら、意外と簡単に見つかるのじゃないのかな。あくまで冷静に見つめることが重要なんですが。膨大な記録のもつヤバサにのみこまれないように。

    案外、自分が「前世の記憶」だと言い張っているものの中に未来の秘密が隠されているのかもしれませんね。

    2004年3月17日

    アカシックレコード基礎知識

    ーこの「ア・オ・シック・レコード」、元々は人類の始まりから終わりまでのすべての年表。すなわちタイムテーブルが書いてあるという記録「アカシック・レコード」からとっています。「紅い病の記録」があるのなら、蒼いのもあってしかるべしではないかという、とてつもない駄洒落です、実は。
    しかし、アカシックレコードなる言葉、オカルト好きやニューエイジ系以外の普通の人々には縁のない言葉だと思います。と、いうことで、挨拶代わりに早速引用してみます。


    アカシックレコードという言葉は、「眼に見えるわけではないけれど、みんなに使ってもらえるように蓄えてある記録」を意味しています。アカシックレコードは夢と現実の間のような場所にあって、人類が生まれる遥か以前から人類の遠い未来までの、地球に関わる生命体の全記録が詰まっている場所です。それは想像しにくいほど膨大な、情報の宝庫、データベースなのです。
    このデータベースの中には、私たち個人についての記録も収蔵されています。「人生の書」と言い表すことができる、この記録には、過去世から未来世にわたる個人の魂の旅路が書かれています。なぜ今回の人生を選んで生まれてきたのか、何のためにどんな体験をするのか、といったことが書かれた、人生の青写真のようなものです。
    アカシックレコード・リーディング「マヤのワーク」


    …こんな感じかな?ただ、このレコード正確に読める人はあまりいないそうで、ほんとに読める人はイエスやブッタクラスの神クラスだといわれます。最近ではエドガー・ケイシーが有名なリーディングをやっていたというのがオカルト界の常識だそうです。一説には、精神疾患の何割かはこのレコードを正確に読むことが出来ずに、歪んだバイヤス(というか、自分勝手な解釈)をかけた結果、他人に考えが受け入れられなくなってしまったのが原因だという方もいますね。
    個人レベルのことも書いてあるのに、なぜ大多数の人は理解できない仕組みになっているのでしょうね?これを作った人がいるのなら、「いじわる!」と悪態をたれたいところです。

    このアカシックレコード、実はいま考えている(略)の要になっているので、最近はオカルトなぎさんとなってしまってわんわんわん、な人生を送っています。

    …てな感じで、神への道(大げさ)、「ア・オ・シック・レコード」、どうぞよろしく。

    復讐するは誰にある?

    最近、ネット上の知人が死んだということを人づてに聞いた。iらんど時代にちょっと詩とかおいてくれた子なんだけど、その経緯を聞いて私は愕然とした。

    復讐するは我にあり。

    これはチェーコフの「アンナ・カレーニナ」の有名な一文だ。この言葉を最後にアンナは列車に自ら飛び込み自らの不倫の罪を償うため自殺する。
    しかし、ほんとうにそんなことで罪はぬぐわれるものなんだろうか??


    かつて、酒鬼薔薇事件の際、ある高校生がTV討論で「何故人を殺してはいけないの?」と質問し周囲の大人を黙らせたことを覚えている方はいるだろうか?別に、彼は「わからないから」聞いただけであり、むしろ問題視すべきなのはそれにマトモに答えられない大人たちのメンタリティであるのだが、そのあたりに明快な答えを出したものはいまだいない。
    それもそのはずだ。殺人というものは人間だけがもつ最大のタブーであるからだ。
    殺人?と思うかたは戦争、自殺、あるいは死刑問題、中絶問題などを考えて欲しい…人が人の手で人の命を消すという行為にはさまざまな思惑や感情が渦巻いている。それだけ、この行為が人間の本来の分を超えた行為であることの証だと私は思う。
    先の高校生発言に関して、映画『デットマン・ウォーキング』と絡めて「Web電藝」金水正氏はこうかいている。

    (前略) 一方で死刑を求める人たちがいて、主人公のシスターはそれと闘っている。死刑を求める人たちの心には、理解を越えた犯罪を冒す者たちへの憎しみが渦巻いているが、それは死刑囚が最後まで周囲の人たちやシスターに対して心を開くことができない(何があったのか真実を告白しない)のと同じだ(彼の心の中にも憎しみと恐怖が渦巻いている)という風に描かれているように思える。したがって、憎しみを超えて心を開くことができれば、人々は許し合うことができるはずだとこの映画は伝えているようだ。 だがしかし、そこにはまだ一つ問題が残っているのではないだろうか?確かに死刑の執行の直前に至って、死刑囚は主人公に心を開き、実際に行った自分の犯行を告白する。(中略)しかしそれでも、彼のあの残酷な犯行だけは、依然理解を超えた事実として取り残されたままではないか。どうして彼は人を殺してしまったのか。そのまがまがしい犯行の現場を人の原罪の在りかでもあるかのように映し出す映像は、この映画の中でどんな意味を与えられているのだろう。 web文藝 なぜ人をころしてはいけないかhttp://www.indierom.com/dengei/society/kinsui/hito.htm

    この映画はレイプ・殺人を犯した犯罪者に対する死刑問題を扱ったものだが、死刑を必死に止める主人公シスターも、逆に彼を死刑に追い込む人々も、「人を死をもって裁く」という命題から逃げられない。そして、当の犯罪者(ショーン・ベン!っす!好きなんだよお)も死刑執行直前に「私は人を殺すという悪いことをした。(そのことを反省し、残された人にお詫びを言う)人を殺すということは悪いことだ。だから私も殺さないでほしい。」と切なげな顔をして、殺人の悪を語る。
    そう、だれもが殺人は悪いと思っているのは自明のはずだ。だから、そんな質問は必要が無かった、はずだった。それまでは。

    しかし、殺人に限ったことではないが犯罪は人知の範囲を超えたところで突発的に起きる。それをなるべく食い止めるために様々なルールが必要となり、制度ができ、法ができ、その名のもとでまた…な悪循環を繰り返している。今も。その悪循環がさらに人間を苦しめつづけているのは皮肉な話だ。もしかして人間が人間を死で裁くというのは、自殺行為なのかもしれない。それがわかってても、そこまでしないと憎しみや恨みが収まらないのはなんでなのでしょうね。たとえ、それが自殺という選択肢だったとしても。

    この話、「The Center~」の項目にしたのも、物語最大のテーマ「最初の殺人は何故おきたのか?」というおそらくはライフワークになりかねない課題そのものに抵触するからであり、さらにはこのテキストで「神が人を裁く」ことを考えされられたからである。

    Posted by nagisan at 2004年05月22日 13:27

    Movable Type

    いや、コレ便利だね。使ってみると。
    トラックバックとかは今のところ反応無しだけど、カスタマイズの楽さやいじれる広さ、あとはサポーターの多さ(いろいろお世話になっています)…機能の多さの割にわかりやすいのが大きいです。
    実は携帯からも見れたりして…。
    (この携帯向け変換プログラムはtalk to oneself 2さんのところにあります)
    ただ、ブログって概してヤフーやgoogle等の検索反応率が敏感でそこに萎えてくる(いいんだけど、昔のエロネタでヒットしてそれで来られてもなあ‥のがある)ときがある。それがいやならブログやめてさるさるかエンピツとかのレンタル日記にすべきなんだけど、このリスクよりも掲示板(これはやはりコミュティー…悪く言うと馴れ合いか?のウエイトが大きいので、このぬるい空気の苦手な私には不向き)とは違った「読者のお手紙」的スタンスのコメントが好きだったりします。この距離感が、ネット上では最適な気がする。あんまりはまりすぎると「たかがネットの字面だけの関係なのに…」と疲れることも多いし。こう思うと荒らしも「あら、いじめたいほどこの日記気にしてるのね(ウフ」な日曜作家の気分が味わえてラッキーです。

    とりあえずは、ウェブログを使いつづけそうですね。