nagisanの記録

    2004年4月30日

    大道芸人

    えーっと、現在横浜にきています。
    ちょっくら貧乏旅行に出かけていまして、現在ネットカフェにて寝どまりしています。
    しかし、あんまり個人ネタかますのはここの場合あんまりふさわしくないので家に帰ったら即効消去。

    つまり期間限定。
    …と思いましたが、意外と面白いので残しました(5/14更新)

    しかし、横浜ってきれいなところだね。惚れ惚れしますわ、ホント。
    なんだか、日本なのに日本じゃないような整然としたところが新鮮ですわ。それでいてビルとかも森林と違和感のない調和の取れた感じ。道行く人もスマートに生きているみたいに見える。
    特に桜木町。

    こんな小学生日記な内容も旅先ならではなんでしょうな。

    あ。肝心のタイトルね。
    まあ、ランドマークビルのそばに最近クイーンスクエアなるビルが立ったそうで。
    そことランドマークの間の広場でKさんと言われる人が大道芸をやっていたんですよ。

    この人、芸の達者さもさることながら、話術がすごくうまくてライブで観客を乗せるのがうまいの何の。
    客や周辺の空気をみながら、さらにそれに応じた小道具(細かいくらいうまくできている…たぶんいくつも準備していたんだなあ)と使いこなし、まるでここにいる人すべてが彼の世界の住人であるかのように取り込むのがうまいのよ。しかも、もちろん大道芸人だから笑わせるのは超一流。その場にいた人は楽しい時間をまさに楽しんだわけ。

    したがって、これを見た人の多くが喜んでおひねりを出すわけ。もち私もな。
    こんないいもの見せてもらったのなら、商品券3万円(仮)もだしたくなるわな。
    こういうものなら等価交換だな…と思わせるくらい、すごかったです。

    いやーほんと芸人はいいわ!

    2004年4月29日

    それでも地球は回っている

    時には雨でせつなく一人ごっつええ感じな気分でいることもある。
    たまには、あつ苦しい太陽がウザイときもある。

    それでも、スーパーでは4月に入った新人バイトや生活費を稼ぐおばさんが働いている。
    じいさんは囲碁クラブで待ったり楽しんでいるし、赤ちゃんはママーママーと泣いている。
    女の子は冬のソナタで盛り上がっているし、男どもは酒場をめぐってわいわい楽しんでいる。

    本当の話、神話だのオカルトだのよりはこういう今、近くにあるささやかな喜怒哀楽のほうが大好きだ。
    これは、旧サイトのパンドラ開始時からの…いや生まれたときからの変わらない感覚だね。

    なんでそんな人がオカルトなんですかと聞かれると、今は「神がいるんだよ、神が!」とか「このまえ宇宙人に会ったんだよ、マジ!」みたいなメルヘン…どころかメンヘルなアンサーしか出ないんで、自分なりに決着をつけるために読み漁っている状態で。

    神や宇宙人も近くにいてもいいとは思うけど、あんまり自己主張激しいと疲れるんだよ。
    特に人間でもそうだけど、「私はレベルが高いです!!」オーラを持っているやつというのは大概において、人々を巻き込んで平然としているからな。
    ある意味、悲しい生物だなとも思いますがね、悪魔的人格の私としましては。
    しかし、難しいことにこいつらの話というのは飽きないし面白いので、映画化でも漫画でも小説でも嘘の話として割り切れるのなら付き合ってもいいかなと思う。
    つまり、相手が傷つかない方法をもって取り組めば、許してくれるのではないかと。

    私とて、無用の人間が本当に壊れるのを見るのは正直いやなんで。

    全ての歴史が夢ならば、あるいは未来のためのありがたい教訓話なら楽しいかもしれない。

    そんなくだらないこと書いていても、今日もコンビニではバイトがやる気なく働いているし、風俗嬢は自分のタガを外して出勤する。オタクは秋葉で「ふたりはプリキュア」グッズをあさり、援交少女は無邪気に金を奪っていく。
    たぶん、世界が終るときも似たようなものなんでしょう。
    昨日と今日、明日…時代は突然変異では変わらずゆっくりとゆっくりと気づいたらまったく変わっていた…そんなもんだよ基本的にはさ。死をのぞいてはね。

    まあ、こんなくだらない人間が実に大好きな私なんです。

    2004年4月20日

    きれいすぎて間違いが見えない

    一時期、たしかフォトショップでスライス(一枚の画像を裁断してレイアウトをHTML化すること)を覚えた頃、自分のサイトをへたうまな字まですべて手書きのビットマップで作ろうかとあほなことを考えたことがある。結局、思うままに行かなくてラフ画を背景に載せるにとどまったのだが…まあ、他サイトで(おバカな意味)で凄いセンスのをみてしまったので、これは実行しなくて正解だったな、と遠い目で今思い出しました。

    で、なんでこんな話するかというと、職場でふとおもいかえすことがあったからである。
    久しぶりの職場ネタ(しかも取り扱い注意)のうえ、ちょっと長くなるので気合を推奨します。


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    先日、書類のとりまとめを社員さんとやりました。
    いろんなところから来る決算のデータを自分のところに取りまとめ、計算ミスや記入ミスをチェックした後もっと上の本社の方へ送るというものです。

    しかし、オフィスにOA機器、それもエクセルやワード(一昔前なら一太郎やロータスでしょうが…これがある時点で公的機関だなあとしみじみ)が当たり前の現在というのに、田舎の方ではまだよぼよぼの職員1人というところもあるので返ってくる書類も年度末の資金データですら手書きというところが案外多いんです。表計算作成がデフォルトの私には新鮮…というか電卓で演算という時点で気が遠くなる。

    それで、実際こういうバラエティにとんだ書類を処理していたら、ある職員さんがふと、

    「なんだか、パソコンで書いた文章って見ているだけでキレイそうだから、大丈夫だとつい思っちゃうんだよね」
    「なんで?」
    「手書きというのは、筆跡とか筆圧とかで案外、注意すべきかどうかなんとなくわかるんだけど、パソコンだとインクの上にきれいに書いてあるだけだろ?だもんで、結構エクセルで書いてからのほうが、間際になってから間違いに気づいて大慌てすることが多くなって」
    「わかるなあ。私も印刷した時点でもう完成だと思っちゃうもん」
    「昔はさあ、一字間違えたら書類書き直しだったから、ミスする前に何となく気合が入っちゃって…いや違うな緊張感かな?とにかく、きれいに書こうと必死だったからそんなにミスを気にすることは無かったんだけど…」
    「今は?」
    「なんだろうな…簡単に書類はできるようにはなったけど、その分ミスを犯していないか神経質になってしまったかなあ…」
    「そんなもんなんですかね?」

    と、ちょくちょくたばこ休憩に行きながら話していた。

    口では「そんなもんかな」と疑問形で答えていた私も、言われてみれば思い当たる節がある。

    学生時代のときレポート作成のためワープロを買ったときのことである。画面につらつらと表示される文章の羅列。とんとんキーボードを叩けば簡単にはじき出せる快楽にはまってしまい、ついには簡単な小説まで書くようになった。ちなみにこの快感は今この文章をかいているときもあって、これがあるからウェブ日記はやめられないといいきってもいいくらいの楽しさである。
    しかし、レポートを書き上げてさあ提出だ!とそのとき、あるとき恐ろしいほどの入力ミスに気分が落ち込んだ。理由は、先ほども言ったが口でしゃべるように書いていくものだから、結果細かいミスに気づかないというものである。

    しかも、私には根本的に学習能力が無いので、この勢いでミスってものを現在に至るまでしょっちゅう繰り返し、そのたびに落ち込んで…という悪循環を繰り返している。

    そのたびに、あたしってなんて集中力が無いんだろう!と自己嫌悪。これは本当のことなので否定はしないけどね。

    しかし、確かに簡単に出来てしかも出来が一見キレイだと、それで満足してしまうわな。そして、満足しているものに対してさらに観察するような面倒くさいことはやりたくない。無駄なことにはエネルギー使いたくないから。その、甘さがミスを誘発するわけなのだが、しかし、この作業かなり疲れる。一時期やっていたプログラムのデバッグをこの作業に重ね合わせるくらいの気の使いようだ。でもここまでしっかりやらないと後で本社からミスを指摘されて、監督責任としてうちら支社の人間が怒られてしまう。
    ちょっと、猜疑心を強くしないと安心して書類が送れない…正直、家に帰ると寝るくらい疲れる。

    最近はメッセ(もともとあんまりやんないけど)どころかメールの付き合いすら面倒くさくなってきているのはなんとなく書いてある文章が本当に書いてあるのか、社交辞令に過ぎないのではないか…みたいに無駄に神経をつかうので、文字だけでのディスカッションでないコミュニケーションの交流に疲れているのもあるのかもしれないですね。
    そういえば、自分のメールって、あんまり友達言葉とか使っていないことに苦笑気味。もしかして、心許していないかもしれない。知人の掲示板でネタかますのが平気なのは、「ワラタ」以上の反応を欲しがっていないせいもあるかも。

    キレイすぎるものには、なんか大きな穴がありそうで、正直怖いです。

    2004年4月18日

    1995年

    1995年てのは、やっぱり今から振り返ってもとんでもない年だったな・・・
    ・阪神大震災
    ・地下鉄サリンと一連のオウムの事件
    ・村山内閣
    ・戦後50周年
    ・青島&ノックが知事に
    ・1ドル=79円
    ・Windows 95 が登場
    ・PHSが普及

    悪夢のような事件と、今につながる情報化社会のネタがここで出揃ってる。
    2ch 日本史板 「このスレは1995年です」より

    情報と宗教、そして、政治のパフォーマンス化。
    現在の始まりの年と言ってもいいかもしれない。
    PHSは現在の携帯電話の前身ということにするといまあるIT技術の原型がこの時期にすべてそろっている。
    この時期の少し前、統一協会のおかげでマインドコントロールに関心があったせいで、カルトとしてのオウムにかなり注目していた。しかし、今考えると、この集団、カルトとかテロ集団とかの縛りにとどめておくのはまずい気がするわ。正直。なんかとてつもない集団の物まね(別に秘密組織じゃなくて…以前から言っているアレ…かもね)を本能的にやっている、そんな気さえしてくる。
    政治のパフォーマンス化に関しては、政治もまた印象によって動くものだということを証明し、それ以降政治家はますますパフォーマンスで人気をえようとし始める。丁度この頃に、自民党のパワーが低下したこともあり、見た目が仙人みたいな村山さんが首相というのも象徴的だなと。

    まあ、このころからマインド、心の問題ってやつ(スピリチュアルじゃない方、こっちは80年代から潜在化して21世紀はいってから勢力が肥大化、かな)が表に出始めるんだよね。そして、演出次第でヒトラーみたいなカリスマがなくとも、論理的にある程度の人間を掌握することが出来るということに普通の人々が気づき始めた時代でもある。
    (まあ、ヒトラーの時代は当時のドイツの時代背景とかもあって、救世主願望が強い風潮なのもあるから簡単にあそこまではいかないけど)

    で、情報といえば、インターネットと携帯電話…これは少し考えれば「ネットワーク」というのが出てくると思う。

    まあ、すべては「繋がっている」。
    バブルの浮かれ気分からどん底に落ちた日本人が、このことに気づき始めた年かもしれない。

    2004年4月10日

    愛をめぐる話


    七つの愛の物語 「イシスとオシリス」から「トリスタンとイゾルデ」まで
    (ダイアン・ウォークスタイン 著/丹羽隆子・川口昌男 訳)


    そういえば、かなり前からアマゾン・アソシエイトには登録していたのですが、なかなかサイドバーの紹介コーナーの設置がうまくいかないせいもあって、紹介は逃げていたのですがとりあえずやってみようかと。

    この話は世界各国の神話から、グランドロマン的な恋愛話を、オペラ風というかなんというか戯曲的な書き方で7組のお話にまとめて編集したものです。

    愛はロマン、愛は流浪の人生、愛は狂気。

    一言でいえばそんな感じの集大成でしょうか。

    「愛があれば、すべてはいらない」
    よくこのせりふをのたまう人がいますが、正直私はどっちかというとアンチタイプであったりします。
    愛では飯は食えないだろ…単に食い意地が張っているだけですが(実はその他の部分でも意地っ張りのは秘密だ)、この本を見てるとたまにはグランドロマンもいいのかな…と思えてきたり。
    愛が人間にとって最大にして、最強のエネルギーになりえるものであることを痛感させられますね。そして時には最終破壊兵器になりえるという恐ろしさも。

    とりあえずここまで。あとはのちほど。

    2004年4月 9日

    イスラムとユダヤとシオニズム

    最近よく「シオニズム」という言葉を耳にしていたのですが、実は全然「ユダヤ人のパレスチナ帰還運動(パレスチナの地を「シオン」と言う名で象徴するらしい)」というのがわからなくて、「????」な気分でいたのですが。
    まあ、今回の事件がらみであっち用にネット検索してみたら、イスラムとユダヤとのややこしい関係というのがヒットしまして。

    結論からいうと、ユダヤ教とイスラームが千年以上も敵対してきたというのは、今世紀最大の大嘘です。こんな嘘を本気で信じているのは、多分「人の好い」日本人と欧米の一般大衆くらいのものでしょう。そもそも「ユダヤ人」自身がこんな嘘を信じてはいません。イスラエルのテルアビブ大学付属ディアスポラ博物館は、「ユダヤ人」の苦難の歴史を伝える世界最大の展示機関ですが、そこでも「ローマ帝国やキリスト教徒に比べれば、イスラーム教徒(ムスリム)ははるかに寛容な支配者であった」旨の解説を読むことができます。「ユダヤ人」を差別・迫害してきたのは誰よりもヨーロッパのキリスト教徒だったのです。 イスラーム世界がよくわかる100のQ&A  「Q5: ユダヤ教とイスラム教はなぜ千年以上も敵対しているのですか。 」


    まあ、中東関連のニュースで見るほどイスラム人は残酷な人間ではないということでしょうか。というか、このサイトの他の質問とかみてると以前からおもっている「キリスト教が2000年の間、世界を振り回してきた」仮説がますます強くなる一方です。イスラム教のコーランにも天使という概念があって、どちらかというと対立している(と信じられている)キリスト教(新約聖書Ver)よりは、ユダヤ教(旧約聖書Ver)やキリスト死後の書物のなかでも死海文書等、異端視されてきたタイプにちかい捕らえ方をしている模様です。
    ユダヤ人が嘘に騙されまいとする傾向や、モーゼの奇跡以降世界中を放浪する(これものちのシオニズムに反動されると思うとアレなんだけど)もなんだか遺伝子レベルでのからくりがあるような気がしてきたような。そのあたりは、例の(ryなんで企業秘密なんだけど。

    というか、あの事件、タイミングが悪すぎ。なんだかなあ。

    2004年4月 7日

    冬のソナタinランチタイム

    いま「冬のソナタ」って流行っているんですね。
    本屋なんか行くと、そこらじゅうこの手のムック本で一杯で、見ているだけでストーリーが読めそうなおなか一杯な気分にさせられます。
    なんと、物語の舞台を回るツアーまであって、10万円(!)とか。

    「普通、韓国なんか3,4万でいけるモンね~」
    「うんうん、ちょっと高いよね」
    「しかも、3、4日で回るってすこし大変そうね」
    「でも、ヨンさんかっこいいよね~」
    「私、この手のタイプ苦手なんだけど、このヒトはまあかっこいいかな?」
    「私も~。紫門ふみとかの純愛モノってダメだけど、なんか見たくなるよね」
    「やっぱ、ヨンさんでもっているのかな?」
    「そういえば、今日朝のめざましテレビでヨンさん特集やっていたよ」
    「追っかけすごいね~」
    「眼鏡、似合うよね」
    「ほんと、アレはかっこいい」

    …平和なお昼のひと時でした。
    ふー、よかった「冬のソナタ」が「薔薇と牡丹」みたいなドロドロな話ではなくて。ヨンさんのおかげで今日もお昼ご飯がうまいっす。

    おまけ。
    「この話ってどんな話?」
    「うん、結構古典的。ホントベタベタなくらい」
    「昔のドラマに例えるとなんだろう?」

    「君の名は!」
    「正解!!」

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    2004年4月 4日

    愛はシを分かつことにあり

    われわれの神々もわれわれの希望も、 もはやただ科学的なものでしかないとすれば、 われわれの愛もまた 科学的であってはいけないいわれがありましょうか ━━━  リラダン   『未来のイヴ』
    …最近神について醒めた視線で見るようになってきたせいか、マジに愛ってヤツを理論化できないかと思うようになってきた。

    実は内心毛嫌いしていた「やおい」に関しても、「愛から男性・女性のジェンダーや妊娠という生産性を剥ぎ取った「純粋な愛の物語」を愛でることで、社会にカウンターをかけている」と考える向きもあるなあ‥と軌道修正してみたり。(でも、正直あの世界観はグロいんで苦手だ)まあ、女性の持つ真の愛の感覚が把握できるとおもうんだけどね。アレは。

    となると、女性が語る「愛・物語」に対抗できるだけの、男の愛情というものが知りたくなるのが世の常でして。とおもったら、探偵ファイルでこんな記事が。

    打算や支配や誘導から始まる愛は愛とは言えない。恋した女性の全てをこの身で感じたい。 痛みや苦しみや悦びは、いつも一緒に。 ━━━  探偵ファイル 2004/4/3 「心中考」
    この言葉(無記名なのでBOSS氏と思われるが)、たぶん、真実と思う。

    愛する人と全てを共有できたら、それほど幸せなことは無いだろう…たとえそれが残酷な結果をもたらしても。

    そして、どうしてこの感覚を容易くえることが出来ないのか…それが、愛をめぐる人間の受難…なのかもしれない。


    Posted by nagisan at 2004年04月04日 22:08

    2004年4月 3日

    ドラクエⅤについて語る

    ドラクエの何処が神話なんだという突っ込みは無視で、最近リメイクが出たドラクエについて語ってみる。
    当時、個人的に萌えだったのが「主人公成長システム」と「結婚」、そして「石になった嫁を親子ともども救う」みたいなシュチュエーション。前二つは判ってくれると思うけど、実は昔から私、この石化という呪いネタかなりつぼに入っていたりします。
    昔、トラウマになったヤツで教育テレビの外国の御伽噺で(そういえば最近はやっていないみたいですな、やればいいのにさあ)山を登るとき、後ろを振り返ると石になってしまうというのがあって、そのときの石化する瞬間がすごいゾクゾクモノで、かなり時間がたってからも頭の中でそのシーンを回想して悦に浸っていた思い出があったりします。


    ま、それはおいといて。
    たぶん、当時はみんなビアンカを嫁にしていたと思います。が、どっちかというと実はフローラ萌えだったんです。別に強い武器がもらえるとか、むやみに強かったり…なゲーム的側面もあったけど、なんとなく「幼馴染」というネタが性にあわなかったのが大きいかったかな。子どもの頃は可愛かったのに、なんとなく生意気になったんちゃうか?みたいな違和感もあったし。そういえば、大人になってからのビアンカって、弱くて使いづらかったような。でも、子どもは黄色いほうが好きなのよね。ほら、当時ってスーパーサイヤ人気分だったジャン(意味がわからない)。双子って言うのもポイント高いかも。この双子の名前を考えるのがすきで、当時好きだった漫画とかのキャラ名にしてました。いまだと「マグダル&デプレ(@FSS)」か「桜花&秋水(@武装連金)」あたりかな。うわ!!偶然だけど、どっちもキャラ同じだ!!

    あ、いま妹がSFC版の攻略本持ってきてくれたけど、パパスは今のPS2.Verのほうが王様って感じがするなあ。ここ10年くらいだと鳥山デザインは変わっていないはずなのに、なんだろうね。不思議だ。ラインハット王子とかだとどうなるんかね?たしか、FSC版のヤシには、鳥山版のラフがあったんだけど、さすがって感じでキャラ分けが出来てて勉強になりますね。

    2004年4月 1日

    ブログって…

    今日は、ゆらっている日記が「ブログ」宣言しているんで、あっちでもブログってトラックバックをやってみたんですが。

    まあ、反響があることはうれしいもんですよ、実際。
    特に建設的な意見だと、うーんと考えたくなって、きちんとした回答をしたくなって、掲示板ではなんだから、「(自分のログという)文献のリンク」をしあう事で、両方の立場から見てもらえるチャンスを与えてくれるんだから、いいもんです。このあたりは。
    まあ、あんまり荒らしの類が日記に関しては(個人的トラブルはあったけど、日記中傷な荒らしは無かったはず)無かった幸運というのも楽観的観測を生み出しているんで、もう少し時間が欲しいけど。
    ただ、ブランドみたいに「ブログって~だから」、みたいな感覚でやっているのはなんだかな…な苦笑。
    生かせる機能は使ってみないとその面白みは判らないものですね。はい。

    いざなぎ流祭文

    まあ、HN「なぎさ(ん←オプション(300円))」なんで今日一日くらいは4月バカ企画で神になってもいいだろう(この時点でもうヤバイ)ということで、今日は徳島に近い高知県・物部村に伝わる「いざなぎ流」の祭文でも取り扱いましょうかね。
    はい、今日の参考文献ね。

    次にご紹介するのは「いざなぎ流」7通り祭文の一つにして、世界滅亡と再生神話を構成し、「大将軍の本地」とともに中心祭文とされる「大土公祭文」である。物部の特定の民家では「天の神」という神が祭られ、普段は使用されない神聖な竈に竈の神として祭られる。その際に読まれるのが「大土公祭文」である。「土公(どこう)」とは陰陽道の神で、春は竈、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいる移動地霊のことである。陰陽の神と言えば「天刑星祭文」=「天下小祭文」がある。天下小は京・祇園社の祭神・祇園牛頭天王の別名である。一般的には祇園精舎の守り神ゴーズが中国から陰陽道と密かに習合し「天刑星」と同一視され、やがては蘇民将来と同一視されている須佐之男命と習合していくのである。「ほき内伝」には「天刑星が婆婆世界に下生して牛頭天王と號す」、「ほき内伝」は鎌倉末期の成立で安倍晴明に仮託して祇園社の社僧が書いたものとされている。どうも陰陽道→修験道→民間といった経緯を経て来たのではないかと考えられている。しかし修験道といっても色々ある。具体的に修験について書かれている祭文がある、「地神祭文」である。地神は十一人の妃をもっていたが、下位の妃が懐妊。他の妃が嫉妬し「天地久熊野々権現様」に占い判じてもらいにいく物語であるが、舞台は「熊野々千丈、ひろ野の山」とある事から、熊野信仰と密接な関係があるようで、文中には次のように書き記されている。「”いざなぎ流”の祭文や祈祷、神楽などの形成に、熊野信仰、とくに熊野修験者の影響・関与があったことが推定される。事実、物部川や吉野川流域には熊野社が多く、また中世の香美郡大忍庄は熊野の荘園があったことが明らかにされている。」 闇の日本史 安倍晴明陰陽師ツアー「いざなぎ流祭文」
    いやーー、物部の一族というのが、正に語り部の一族であることを示すような典型的例ですな。そういえば、大江健三郎も一時期四国にはまってその土地のネタでいろんな小説(「雨の木」を聞く女たち」とか)書いていたっけ。それはおいといて、近年注目をあびている安倍晴明も一枚かんでいるらしきこの祭文、個人的に面白いのは裏の日本神道のひとつ「熊野信仰」の流れを汲むこと、あとはギリシャ・ケルトでおなじみの「職人」、鍛冶がここでも重要な役割を果たしていることに注目したいと思う。熊野信仰に関してはそのうち研究することにして、ここでは鍛冶についてちょっと考えてみたいと思う。以前何かのサイトでみたのだが、鍛冶というのは神話の世界では錬金術(この錬金術というのも最近はやってますね、なんだか)というかなんと言うか、かなり神の創造に近いレベルの物を作る一族として神聖視されているわけなんですが、そのなかでも「金」というものは魔性を持ったものとして、それに関するドラマがよく散見されます。ここでも、「天神」が鍛冶の技術をもちこんだという記述(というか伝承かなW)あったりして、鍛冶技術がいかに神の手に近い技術かということを裏付けるではないかとおもうんですが。この祭文も一説に「世界の滅亡と再生の物語」のひとつといわれているわけなんですが、4つの季節、2つの神(陰と陽)、そして最近練っているネタ(これに関しては…ちょっとまっててな)の要となる「リンクされていく(あるいは同一視されていく)人格」のエピソード、徐々に民間へ降りていく物語…物語、いやもしかして人間の「遺伝子」の輪廻をめぐる話の原料にちかい話ではないかと妄想するわけです。 あ、この「闇の日本史」、安倍晴明研究サイトとしても面白いので彼に興味のある方はどうぞ。